院長紹介
歯科医師:丹谷 聖一

略歴 |
平成11年 日本大学松戸歯学部 卒業 平成11年~ 医療法人社団富岳会 メトロポリタンアルプス歯科勤務 平成12年~ 医療法人社団タカラ会 恵比寿ガーデンプレイスタカラデンタルクリニック勤務 平成13年~ 新宿アルプス歯科医院勤務 平成18年~ 医療法人社団樹英会 ラゾーナ川崎デンタルクリニック勤務 平成21年12月~ アス横浜歯科クリニック開業 平成24年1月~ 医療法人社団 聖礼会として法人化 |
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所属学会等 |
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私が歯科医師を志したきっかけ
「先生なぜ歯科医師になったのですか?」
こんな問いかけが横浜の某ホテルのラウンジで突然投げかけられた。
「うーん、長いですよ、」と私は笑いながら、遠くを見つめながら回想し始めました。
中学〜高校時代
私は、学校の勉強はほとんどしていなかったにもかかわらず、変に自信過剰な生徒でした。
先生との間にもとても大きな溝があった事を思い出します。
口に出してはいけないような思想の問題などを否定したり、公立の中学で道徳の時間に個人的な教育をする先生が許せなくて、ぶつかったものでした。
高校受験のシーズン、私は9校受験して8校落ちたんです。唯一合格したのが、担任から「念のためすべり止め校も受けておけ」と、なかば無理矢理に願書を出された学校でした。
そこに入学するものの、受験に失敗してやる気を失った僕は、毎日窓の外の雲をみて一日が過ぎたり、いろいろ問題を起こしたりと、本当に担任の先生にご迷惑をかけるような高校生活を送っていました。
最初のテストの成績も、学年800人いる中で、最後から2番めの「ブービー賞」。
成績も態度も悪い私に、担任の先生が親身になって相談してくださいました。
またあるとき、中学の同級生と街で偶然すれ違うことがありました。
「あれ?久しぶり〜どうしたのその格好〜やばい人かと思ったよ(笑)」
私は、金に染めた髪にパーマをかけ、だらしない格好でだらしなく歩き、おそらく中学生の頃の私とは、想像もつかない変貌を遂げていたのだと思います。
いわゆる「進学校」へ進んだ旧友と会うたびに、私は悔しくなりました。
「僕は現実逃避しているだけでは無いのだろうか。言い訳をして何かのせいにして。このままで良いのか、本当にこのままで良いのか?」
と、自問自答の毎日でした。
危機感を覚えた私は、「ひとまず勉強をしてみよう」と、両親へ相談して予備校へ通うことにしました。
クラス分けのテストでは、問題がほとんど解けなくて適当にマークシートを塗りつぶしました。
悪運が強いのか、なんと「難関私大受験クラス」に受かってしまったのです。
ちょうどその頃、高校での生物を授業が面白くなり始めていました。
生物の先生は東大を卒業されていて、まさに「生物オタク」といった感じの先生だったのですが、いつも私の質問に答えてくださる、とても優しい先生でした。
大学時代
この先生の授業がきっかけで、みるみるうちに学業成績が向上しました。
生物の体の仕組みにとても興味がわき「これを仕事にできないのだろうか」そう思いました。
救命救急で瞬間的に命を助けていくことに一生を掛けても良いのではないか?
特別な手術スキルを持った外科医もいいな!などと妄想にふけっていました。
そんなときに目にしたのが、友人のお父様が開業されていた「歯科医院」でした。
私は「あっ!これだ!」と思いました。歯学部を受験しようと決心したのがその時でした。
猛勉強の末、奇跡的に歯学部に合格することが出来ました。
厳格な父からは「留年したらその場で退学。下宿はさせられない」という約束で、大学生活が始まりました。
みんな自分より頭が良さそうに見えました、一般教養(英語、数学等々)赤点ぎりぎりで再テストに引っかかったり本当に苦労しました、その反面、解剖、生理学、生化学等々専門的な科目はとても面白く苦に感じたことはありませんでした。
6年生の最後の方の国家試験の模試では、2位、3位まで来てました。国家試験は受かるのは当然と思いこれからどのような歯科医師になろうかと考えていたことを想い出します。
大学病院に残り癌など困難な治療をやり上り詰めるか、ただ全身管理の面などどう考えても歯科の口腔外科では医科の管理にはかなわないという現実が見えてきました、
本当に教授になり数例年にあるかないか、大学のネームバリューで偉そうにしている方々もたくさんみました、
そんなとき、先輩の紹介で見学に行かせて頂いた歯科医院がありました。同じ人間が話して下さっている話が、あそこまで理解できなかった事に新鮮さと、驚きと、無力、無知、を同時に感じました。
直感でここで働かせて頂きたい、歯科医師として卵から殻を破って出る瞬間に目にする物、これからの長い人生に大きな影響を及ぼすであろう事と、田舎のパーマ屋から青山の美容師には突然なれないが、青山の美容師はいくらでもパーマ屋はやり方次第かと思い、・まずはシビヤな環境、空間で挑戦したいと、
そこは保険診療という枠では無く、100%自ら選び負担する自由診療専門の紹介しか滅多に受け付けないような歯科医院でした。
勤務医時代
まだ度素人の私にもすごさがあらゆる物から伝わって来ました。私は「是非働かせて下さい、お願いします、」言いました。
「いやぁ、先生悪いけどうちは新卒の先生は無理だよ、」
「うちの患者さんは皆さん求められいらして頂いてるから、先生が触れる患者さんはいないし、話すらさせる事はできないよ、」
私は、それほどまでか、と思いました。
「そうですか、」
「それでしたらもう少しだけみさせて下さい、」
そうお願いし、一週間かよい続けました、
その途中にも見学の仕方にご指導を受けたり、
「先生、大学じゃ無いんだから、そんな患者さんの目に触れ分かるように見学しては患者さんが気にされるから、気配を消して気を配りじゃまにならないように見学して下さいと、患者さんはモルモットでは無いんだよ、」
確かに私はみる物みる物目に焼き付けたく、自分のことしか考えられていなかったのです、
だから、新卒などはギャップがありすぎて、無理なのだろうと、しかし追い出されるまで可能な限り見学させて頂こうと、とある土曜日、
「先生明日暇?」
「明日学会が有明であるんだけど一緒に行く?」とお声を掛けて下さりました。
私は「はい、行かせて頂きます。」と即座に返答させて頂きそこの医院の理事長の先生が(日本の歯科の歴史を作ってきた1人の先生)講演をされ私は度肝を抜かれました、
一流とは、こう言うことなのか、雲の上の存在のような、かなり大きなホール満員の中素晴らしいリズム、抑揚、一般の方もおられるセッションだったので私にも理解でき、面白く、引き付けられていくとても充実した内容、圧巻でした。
同じ歯科医師にもこのような事ができる先生がおられるのだなと、
そんな中あっという間に終わり、帰りのゆりかもめの中、日曜と言うこともありかなり混雑していたのを覚えています。
「先生は何故歯科医師になろうと思ったのかのう?」質問を先ほど壇上でお話をされていた先生に4人掛けボックス席を何故か2人でかけ、質問を受けていました、今思えば面接だったのだと思います。
私は、今まで前述したいきさつ考えをお話させて頂きました。
「君は歯科医師をなんだと思っているんだ、そんな気持ちでやっるなら辞めてしまいなさい、救命救急は瞬間に命を助けるかもしれないが、歯科医療は、当然命もさながら、その人の人生をも助けることができるんだ、衣食住の食を失っては生きてはいけない、口腔、歯はそれらの主となる所、食べれない人が・どれほど辛いか、歯が無くなることが・どういうことか、分かっておらん、いいか、医療人になるなら、盆暮れ正月無いと思え、病気に休みは無いからね、と言うとふと優しいお顔になり、お父さん、お母さんはおいくつじゃ?などという話をされて行きました、
次の日、先生、一緒にやってみる?と言われ、ようやく働き始めることができる様になりました。
本当の意味での歯科医師に何故なろうと思ったのはこんな事がきっかけとしてあったからです。そしてそれを(歯科医療がいかに大変で意味のある、その方の人生をも左右するほどの)実際体験していくのは10年もの月日がかかりました、このときは知るよしもなく、何の頼りもない僕は、早く一人前になり、自分の力で思うように生きていきたいと、・
正式に採用され一から歩み始める第2章、どうしますか?(笑)
私は正直、長く話して、皆さん眠くないかな?と私事の話で気になりました、
しかし「いやーまだここからが面白そうじゃないですか、」と言われ、少し冷静に現在に戻りつつまた1999年4月にタイムスリップして話を始めました、
「先生これのどこを掃除したの?」先輩の先生に聞かれていました、
後このスリッパ、ちゃんと並べないと、
自分でとても真剣に一生懸命やったつもりが、何もかもが不十分で自分の感性の低さを知りました。
本当に寸部の狂いも無くどの観点から見ても綺麗な並びは綺麗でケチのつけようがないくらいの形を求められました。
患者さんはいろんな職種、感性の方々がいて私たちよりも高い人ばかりです。
それに合わせていかなくては信頼もされないし、不安にさせてしまいます。
感性を磨いて下さいと、くしゃみの仕方、歩き方、立ち方、どれもこれも、
まさかそこを、・と思うほどにことごとくご指導を受けました。
自分の浅はかな考え、薄っぺらな哲学、哲学なんて呼べる物ではなかったと思います、
しかし一つ一つ毎日毎日お話を頂きました。患者さんとはなんぞや、歯科医師とはどうあるべきか、
例えば、言葉の処方箋、私たち歯科医師が(医療人が)発する言葉、態度、患者さんにどれだけの影響を与えるか、
極端に言えば専門家が発する言葉にはとても影響力があり患者さんを深く傷つけることもあるし、希望を持たせ、救う事もできる、痛みを和らげる事もできるし、安心をさせる事もできる。ただでさえネガティブなイメージを持つ歯科医院でネガティブなことを患者さんの耳から入れることによりどれだけ患者さんにストレスを与えるか、患者さんの気分を悪くさせようと思ったら簡単な事です、
恐い言葉を使って恐い口調で伝え、麻酔の針がなどの痛みの刺激が伝わった瞬間患者さんは気を失う事でしょう、だから、ポジティブな言葉を掛け、表現にも気を配り、Fの旋律で「ドレミファーのファー」の音で話、語尾を上げる。歯を抜くなんてことは絶対言わず、歯をお取りする、麻酔を刺すではなく、痛み止めをする、いすを倒すではなく、横にしますね、、インプラントを打つではなく、埋入する、歯を削りますねではなく、形を整えますね、神経抜きますねではなく、神経の治療をしますね、・
とまあこのような形で、初診の方にしても同じで、悪いの分かって来ているのに、ここもだめだ、あそこもだめだ、はぁ、酷いですね・どうします、、みたいなやりとりで心を痛めてきた患者さんも少なくありません、
過去のことをいっても仕方ないので、
今まで、大変でしたね、これからは良くなりますよ、良い骨してますね、とても良い、・常にその様に伝えていきます。
これは患者さんとお話をする上で大切なベーシックな考え方で有ります。
また「理想の歯科医師はどういう人じゃ?」と言うように常に考え投げかけられました、
最高の技術を持ち、最高の哲学者で、人格者で、神様のような人に治療しもらいたいじゃろ、・
家族を診せるならそんな先生が良かろう、
なぁ・そうじゃないか?ならその様になるよう近づけなさい、
まだ経験が浅いから、それはまだ勉強していないから、その分野は自分の分野じゃないから、具合が悪いから、眠いから、お腹がすいたから、家族とけんかしたから、親が亡くなりそうでもそれを出すものではない、と教えて頂きました。
患者さんのさわり方、とても丁寧に触るよう特訓させて頂きました、
麻酔の針も自分の口に何日も何回も刺しまくりました、
痛くない方法は、・患者さんのお口の中に使う不快な物は全て自分の口の中で試しました当たり前と言えば当たり前なのですがなかなかその様なことをされているのをみられないのが現状のようです。
治療の方法論はあらゆるところで論じられています、方法はあくまで方法でしかなく。使い方を間違えれば凶器にもなります。正しい道(倫理観、医療の正当性、患者さん自身のメリット)を考え、具体的な方法を表現する。
これが逆で方法ありきでは単なる独りよがりの独善的な治療になることでしょう。そんなこんなの訓練をよる下積みしながら、実際の診療中は、朝は掃除から始まり、診療アシスタント業務で吸うバキュームを持ったり、セメントを練ったり、患者さんとお話をしたり、していました、自分の中で歯科医師になったのに、何故このような事をずっと続けなければ行けないのか、何もできないのが分かっているのにもかかわらずフラストレーションがたまって行きました。しかしアシスト業務も満足にできない現実、
「先生、かわって、」自分より年下の衛生士さんの方が私より、できるのです、これが現実でした。
患者さんにとってベストでなければ、当然チェンジなのです。
まずは今ある目の前のこと、やるしかない、自分に足りないことは、どうやったら、良いアシストができるのだろうか、考えました、
来る日も来る日も、自分をある意味消して、その先生が何が欲しくて今何がしたいのかを常にさきよにして同じ境地に立つことでした。
治療手順も当たり前ですが、患者さんに気を遣いたいところをこちらがその役割を担う、セメントの量むだを無くす、材料を大切にする事、物を丁寧に扱うこと、物の置き方、引き出しの閉め方、物の方仕方、
どれもこれも、大切なことばかりでした、
その様な事を6ヵ月、やっていたでしょうか、「先生、○○さんの歯石とって、」
初めて自分一人で患者さんの口腔内を触るチャンスが来ました、すっと、・もう当然の様に優しく触れました、
ずっといろいろ想定して準備していたので、躊躇することはありませんでした、
それから3ヵ月位はずっとクリーニングなどの予防処置専門にさせて貰っていました、
そこでも器具当て方一つ一つ、綺麗になっていると言うことはどういうことかのゴールまで、感性を試されました、
今になるとどれもこれも後にはできない貴重な経験をさせて貰っていました、
少し離れてみると、とても感じます。財産といっても過言ではないでしょう、。
そして少しずつ治療に関与するようになり、1年が過ぎようとしたとき私は実は最初からお話ししていたことがありました、一年たったら辞めさせて下さいと、
私の中での目標は、人として、歯科医師としてのベースを学び、治療に少しでも携われるだけの所までは少なくても習得する事、そこまで言ったら複雑な治療はこのペースでいったらいつまでかかるか分からないのでいったん外で飛び出して何ができるか感じようと、何とも勝手な言い分です、
今になると本当に恥ずかしくて申し訳がなくなります。
1年目の人間を教えようやく医院に少しずつ貢献し始めると言うときに、辞めるというのです、
しかし最初からお伝えはしてあったのですが何とも腹立たしい子供です、
とある先生に、「逃げるんか、」辛いからと言われました、
私は「いいえ違います。試したいんです、」なんて偉そうな事を言いとある診療室に移って行きました、
そこは恵比寿の有名なビルの中にある診療所でそこもいろいろな患者さんが来ました、
そこでは全て自分が一から十までやらせて貰いました。
今までの1年の経験を生かし患者さんと接するとどんどん信頼を得て難しい治療が舞い込んできました、
何とかできる限りやりました・しかし2年目の自分にはとても手に負えないような症例まで紹介などで来てしまい、
このままではいけない、本、講習会なでには書いてない、言われていない、本当の所、どのように治療をするべきか、
ちょうど1年がたとうかとしていたとき、一番最初の勤めさせて貰った所の本院の院長が辞めるから来ないかと、お世話になった技工士の先生にまた誘って頂いて新宿の看板一つないマンションの一室の本当にクローズなところで紹介のみの自費100%のところで、また再スタートを切らせて頂く事になりました。
理事長先生のお膝元先生を直に感じることができました、
先生の説明、判断基準、先生のお考えを毎日毎日夜遅くまで聞かせて頂きました、1年くらいは、怒られ通しでしたそれもとても刺激的でした、
簡単に質問しようものなら何十倍にもなってだめ出しを頂きます、そこで常に自分で考え答えを出すことの大事さを学んだのかもしれません、
自分の感性感覚を大事にし、考え、そしてそれに対して、話を聴き必要であれば変化させる、。簡単に聴くなと、
そこでの全顎的な治療(全顎的とは上下全部治す方や、大部分関与して治さなければ行けない人など、)毎日毎日、一日で大きい症例ばかりを手がけ、本当にかけがえのない経験をさせて貰いました。
一生のうちに1例も経験することのない歯科医師も少なくないのではないでしょうか?
とても部分部分の治療だけのことでつじつまが合わなくなっている患者さんをたまにお見受けします。
やらなければ分からないことがどれほどあるかと・思い知らされました。
しかもその患者さんたちはとても感性が高く命をすり減らしているようなプレッシャーも少なくありませんでした、
若干その頃はまだ20代後半からでしたから、下手したら孫です・先生などと最初は思って貰えません、
しかし、専門家としてのプライドを持ちお教えしてお伝えして、治療をし、だんだん若いのに・凄い、若いのに良くやってくれるに変換して行ける様に少しずつなっていました。
この様な大きく全体を治療するような事ができる様になるには突然できる様になる訳でもなくかなりの症例数を要しました。
今どのような患者さんが来てもそうは揺るがないのはそのおかげでだいたい治り方、治し方が診えてきます。
この前、恩師の80歳の誕生会をしました先生もお歳を召したなぁと思いました、
2年くらいにお会いしたときも前にずっと言われていた言葉、世界に通じる仕事をしなさい、と・今もなお、お言葉を頂きました、自分がこれから何をすべきか、今までに支え育てて下さった方々のお気持ちを受け継ぎ、邁進していかなければと心に思っています。